2013年5月4日

区議選の候補者に―議員への道に踏み出す

84年12月、5年間暮らした荒川区西尾久の教員住宅から現在の赤羽台4丁目団地に移りました。

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団地の餅つき大会

子供たちも上が保育園の年長、下が3歳児になり、住宅を購入しようと探している時、赤旗集金の協力者が、中古の公団住宅を手放す話を聞き、譲ってもらいました。バブル経済の前だったので、共働きなら、何とかローンが組めました。隣は国立王子病院、前は桜並木の静かなところです。

荒川時代、北側のほこりっぽい部屋のせいでぜんそく気味だった長女は、転居して間もなく軽い発作で国立病院に入院することもありました。病院ではぜんそくの直し方の指導も受け、その後はすっかり克服しました。

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86年の国立病院統廃合反対集会

翌85年の秋、突然、地元の石山多見男区議の跡継ぎで立候補を、という話が来ました。民青の専従になった時から、自分の活動と任務は党組織の方針に任せてきたので、この時は素直に決心しました。 しかし大変だったのはそれからです。

背広やネクタイを慌ててそろえ、赤旗出張所の作業の合間に着替えて候補者活動、また作業服に戻るという二重生活でした。

石山さんや桐ケ丘後援会の守屋三郎会長などから、予定候補としての立ち居ふるまいまで仔細に指導を受けながら1年余り。地域のみなさんからも暖かい励ましをもらい、何とか石山さんの議席を継ぐことができました。

この中で、毎週火曜と金曜の赤羽駅西口の宣伝、毎週のミニビラ「こんにちは」発行などの活動が定着しました。

桐ヶ丘後援会長の守屋さんは、候補者時代から足掛け6年にわたり、私のつたない駅前でのマイク宣伝につき合って、ビラまきに出てくれました。

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区議会選挙初出陣の日。私の右が石山たみおさん

ビラまきが終わると、2人でコーヒーを飲むのが日課でした。ある日、やけににこにこしているので聞いてみると「実は知らない中年のサラリーマン風の男性から、『おじさん頑張ってるね。あんたは表彰もんだよ。おれは共産党は嫌いだけどあんたのために一票入れるよ』と言われたんだ」というのです。

その守屋さんは、お世話になりっぱなしのまま、都議候補に決まる直前の92年7月に、後援会の会合の帰りに交通事故に遭い、なくなりました。悔やんでも悔やみ切れません。

だれもがやさしく、平和に長生きできる桐ケ丘を、北区と東京をつくる―守屋さんとみんなの夢を必ずやりとげたい。私の新しい「はじめの一歩」に心からご支援をお願いします。