2013年5月4日

民主青年同盟専従に―政治革新運動の困難期の中で

きびしい専従活動で激ヤセ

25歳で民主青年同盟(共産党の指導を受けながら、日本政治の変革と自らの成長をめざして自主的に組織し運動する青年同盟で、当時は全国で約20万人、北区で500人くらいの同盟員が活動していた)の専従になったことは、私にとって大きな転機でした。

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北区の事務所に一人で勤める仕事は想像以上に厳しく、連日の会議や多くの実務もさることながら、日中は相談相手もなく孤立感に襲われます。翌年結婚するころには、不規則な生活と睡眠不足でぞっとするほどやせていました。 歯の治療を一日延ばしにしていて、食べ物も噛めなくなり、毎日立ち食いそばということもありました。

共産党への逆風の中で

当時は革新的な運動や意識が青年の中で薄れつつあった時期で、民青同盟がどう青年と結びつき仲間を増やし、地域・職場で青年運動を作り出すか、模索を続けていました。

一方で、オイルショック後の減量経営、労働者への締めつけの強化で労働時間は延びつづけ、なかなか夕刻には集まれなくなりました。活動は夜遅くなり、独り暮らしの青年を訪ねてはサークルや学習会に誘い、コツコツ仲間を広げていく毎日でした。活動は夜遅くなり、独り暮らしの青年を訪ねてはサークルや学習会に誘い、コツコツ仲間を広げていく毎日でした。教育の反動化やソ連などの覇権主義を利用した反共宣伝が、若い世代の世界観や共産党への印象をゆがめていることも事実でした。

この中で、私はそれらの一つ一つを解きほぐし、同時に心から信頼し合える場として民青同盟が同盟員一人一人の人生の糧となるようにしていくことが、大切だと思いました。

地域の青年新聞で4コマ漫画も

青年運動を交流し、民青同盟の「市民権」を広げようと「若き友へ」という手書きの地域青年新聞を月2回発行しつづけました。

取材や編集、4コマ漫画も自分で描き、これはその後区議会議員として赤羽駅頭でのミニビラによる区政レポートを発行する力ともなり、今日までずっと続けてきました。

20代という、人生の中で最も可能性に満ちた時期に、民青同盟の専従として、数多くの出会いと友情を分かち合えたことは、何ものにも代え難い私の財産です。