2013年5月4日

浮間の化学工場で

74年春、北大を卒業した私は、日本ソーダの子会社で浮間の「新日曹化工」に就職、社会人としての道を歩き始めました。150人ほどの企業で、洋紙の漂白剤やノーカーボン紙の染料などを造る現場と、私の居た研究部門、検査、事務部門がありました。

最初の年は、年休もあまりなく、夏風邪に苦しみながら目黒の自宅から通勤しました。

2年後の76年、父が国鉄を退職、北海道にもどったので、私は会社のすぐとなりの独身寮に入り、浮間の住人になりました。

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化学合成の現場は、想像以上に過酷でした。有機溶剤や薬品の匂いが立ちこめる中で、大きなタンクやパイプをかいくぐっての作業。私の同期で現場に入った高卒の社員は、腰痛で体をかがめることもできなくなりました。

研究室で実験した反応を現場で千倍ぐらいの量でやってみると信じられない問題にぶつかったり、逆に思わぬ点で成功することもあります。

私が任されていたノーカーボン紙用染料の製造法改良の研究で、有機溶剤を使わず、水中での合成法を開発し、現場に持ち込んだときでした。研究段階では製品コストの引き下げが目的でしたが、現場でもっとも喜ばれたのは有機溶剤を吸わずにすむことでした。それまで何人もが急性中毒で倒れていたからです。

仕事が終わると風呂に入り、すぐ地域のサークルや民青の活動に飛び出す毎日。食堂や酒屋の店員さん、プレス工員、製本工など、私よりずっと厳しい仕事の若者たちとの交流。一人一人の生活や悩みに心を寄せ、約束には責任を持つ。仕事はゆるがせにしない。職場の信頼を得ること。

その後、民青の専従になるために退職しましたが、物を作る喜びと、重い責任を学んだ貴重な4年間でした。