2013年5月4日

社会に目覚めた名授業

私が社会や歴史に関心を抱いた出発点は、文京区立2中での本多公栄先生の社会科の授業でした。あの2年間の歴史と政治経済の授業がなかったら、その後の私の生き方はかなり違ったものになった気がします。

本多先生は、歴史教育者協議会という団体の創立者の一人で、教科書裁判でも証人として活躍されていましたが、授業の合間によく、学生時代に憲法論争で語り明かした話をしてくれました。授業には必ずプリントが用意され、また黒板はノートに写すと1ページ分に 何行かあまるようになっていて、そこに授業の感想を書いてくるのが次までの宿題でした。

一番記憶に鮮明なのは第2次大戦の歴史の授業です。先生は、中国や朝鮮、ベトナムやフィリピンなどの歴史 の教科書から訳したプリントを読ませて、日本軍の侵略が、現地の人々からいかに残酷だと見られていたかを詳しく紹介しました。非常にショックを感じたのを覚えています。

しかも学期末テストの問題は「アジアの中学生に手紙を書きなさい」というものでした。私 はなんだか割り切れない思いで、まず侵略戦争へのおわびの言葉を書きました。しかし何か足りない気がして、思い出したのが、戦前、軍国主義に反対して弾圧された人たちのことでした。

そこで「でも、日本にも少数ながら戦争に反対して頑張った人たちがいたことを知ってもらいたい。できれば君に直接会って心からの握手をしたい」 と書きました。

それから何年かが経ち、大学の書店で本多先生の著作を偶然見つけてよんでみると、授業の実践レポートの中で、私の「手紙」が引用されていました。本多先生はその後歴史教育者協議会の事務局長を経て、宮城教育大の教授になりました。

民青の学習会に講師でお呼びしたこともあり、いつかゆっくりご挨拶したいと思っていましたがそれも果たさぬうちに急逝されました。「日本人は戦争被害者であったと同時に侵略民族の一員でもあったという歴史への複眼を持ちなさい」という言葉が忘れられません。