空想児童文学の課題 ―宮沢賢治「銀河鉄道の夜」にふれて

日本で初めての本格的ファンタジーの誕生

ファンタジー特集を組むので「銀河鉄道の夜」について、現代の視点から書いてくれとの依頼を編集局からいただいた。

この10年来書いてきた自分勝手な「銀河鉄道」論を見返してみると、やたらと白黒の決着をつけたがる自分が浮かび上がるばかりだ。

かといって、それに代わる論を立てるほどの自信はない。

そこで、久しぶりに銀河鉄道の旅を味わいながら、この作品に魅かれ続けてきたのはなぜなのか、振り返ってみたいと思う。

悲しみを癒す美しい旅路の世界

賢治童話との出会いは、僕が18歳で学生に成り立ての時、「よだかの星」を初めて読んだのだが、強い衝撃を受けた。それから初期の短編を読みあさった後、ようやく「銀河鉄道の夜」にたどり着いた。

銀河鉄道には、よだかの星やその他の短編に見られる追いつめられたような哀切感や風刺的表現がうすれ、何か癒されたような印象があった。

ジョバンニ少年は、確かに逆境にはあるが、よだかの死を賭した最後の飛翔とは異なる、生きることへのある可能性を秘めて星の世界に踏み出している。自らの空想世界に、主人公とともに、読者をあそばせてやろうという作者の余裕も感じられる。

いま読み返すと、人間の死出の旅路を描きながら不思議に悲哀を感じさせないのは、この銀河の世界が、あらゆる人々の死に美しい価値を与えることのできる特別の力をもって存在しているからだと実感した。物語に登場するカムパネルラやかおるたちの死も、それぞれに心を打つエピソードとしてこの銀河で星のように輝くだろう。銀河の世界は、それらのエピソードの全てを吸収し、包み込んでいくように描かれている。僕は、ファンタジーの最大の特徴は、作品の中に独自の空想世界を構築して成り立つところにあると思うが、銀河鉄道の夜は、人々の人生の重みを受け止める比類のない深さを備えていると言えるだろう。

最終形で完成したファンタジー世界

創作を志すものとして非常に興味深いのは、銀河鉄道の夜が何度も書き直されており、その過程を校本全集によって克明に知ることができることである。

そして最終形になる前の第三次稿、通称「初期形」と呼ばれる段階までは、この作品はファンタジーと呼ぶにふさわしいとは言えないものだったと、僕は考える。

初期形では、前半の午後の授業や印刷所、母親の場面がなく、いきなりジョバンニが牛乳を取りに行くところから始まっている。またジョバンニの独白部分を読むと、カムパネルラはジョバンニが一方的に憧れているだけで親友ではないし、父親は密猟で刑務所にいて帰らないとはっきりしているなど、ジョバンニは極端に孤立している。そして銀河の旅の様子は最終形とほぼ同じだが、違うところは、「セロのような声」が何度も聞こえたり、カムパネルラが列車から消え去ったあとに黒い帽子の男が現れ、ジョバンニに難しい忠告をする場面などだ。作品の中で、銀河鉄道の旅路を誰かが演出しているということを、かなりはっきり書き込んでいたのだ。

しかも夢から覚めたとたん、「ブルカニロ博士」なる人物が現れ、銀河鉄道の夢は「遠くから私の考えを人に伝える実験」だったと明かし、夢に出てきたみどりの切符と2枚の金貨をジョバンニに与える。するとあのセロのような声も黒い帽子の男も、さらに鳥捕りも灯台守もみんな博士の分身ということになる。これでは、安直なSF小説にはなっても、ファンタジーと呼ぶことはできないと僕は思う。物語の中で、空想の世界がそれ自身、自立して存在していないからだ。

賢治が初期形の中で、銀河鉄道をある博士の実験としたのは何故だろう。賢治自身が、銀河鉄道の世界について、自分から独立した存在とはまだ考えず、自分の分身をどうしても登場させて、あの歴史の話やジョバンニへの励ましの言葉を作品中に残したかったためではないか。

しかし生前の最後の推敲のなかで、賢治は敢えてブルカニロ博士も黒帽子の男も原稿から取りさり、自らの分身を登場させるのをやめたのである。それは銀河鉄道の世界が、黒い帽子の男が言うように「どんな人でもみんな何べんも林檎を食べたり、汽車に乗ったり」して幸いを求めた場所だということを、作品の中でわざわざ教えなくとも、普遍的な真理や価値あるものの凝縮した世界として、十分なリアリティーをもって存在できていることを確信したからではないだろうか。

そう考えると、最終形で加えられた前半のジョバンニの暮らしぶりを描いた部分も、ジョバンニがたまたまブルカニロ博士の実験中に天気輪の丘にのぼってきたから銀河の世界に行けたのではなく、ジョバンニ自身のなかに、その資格が備わっていたからだということを示すために、ジョバンニが母親を支えながら、懸命に働いている姿を描き込んだのだということが理解できるのである。

こうして賢治の最後の書き直しがあったからこそ、日本の児童文学でおそらく初めての本格的なファンタジーが成立したと言えるだろう。

緑の切符は真の探究者の印

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」についての多くの評論では、銀河鉄道の世界は、殉教者の鎮魂の列車が天上に向かう死者の世界だという解釈が一般的で、死者ではないジョバンニ少年はカムパネルラを思慕するあまりその世界に紛れ込んだとされてきた。

ところがそのジョバンニが、銀河鉄道で最高の緑の切符を持たされるのはなぜか。

季節風12号の銀河鉄道論の中で僕の考えを述べたが、簡潔にいうと、銀河の世界があらゆる人々の人生の理想や真理、最高の価値あるものが集められた言わば魂のユートピアで、そこを走る鉄道は幸いを求める人々の心の旅路であること、だからこそ死者である少女のかおるたちもカムパネルラも、それぞれが「天上」と見定めた停車場で列車を降りてしまうが、ジョバンニだけは「そんなんでなしにたったひとりのほんとうの神さま」(みんなが一緒になれるほんとうの天上)を求めて旅を続けようとする…。

もしこういう解釈が成り立つとするなら、作者の賢治は自己の博愛主義と自己犠牲的生き方ではみんなを幸福にすることはできないことを悟り、その限界を真っ暗な空の穴の縁に途中下車してしまうカムパネルラの姿に見ていたのではないか。

賢治は一方で、ジョバンニには自分が同化したいと思いつつ遂にできなかった、貧しくとも家族を支えて働き続ける農民少年像を重ね、カムパネルラの死や作者の造りあげた夢の銀河世界をも越えていく存在として描いたのではないか。僕にはそう思えてならないのだ。

銀河鉄道の乗客でこの世界に一番精通しているらしい「鳥を捕る男」は、ジョバンニの切符を見て慌てたように「こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない。どこでも勝手に歩ける通行券です。こいつをお持ちになりゃあなるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんかどこまででも行けるはずでさあ」と言っている。

作者は鳥捕りを通じて、この銀河世界が実は不完全な幻想の世界で、カムパネルラやかおるたちにとっての「天上」は存在しても、本当の幸いを探し続けるジョバンニを満足させる停車場はあり得ないことを示したかったのではないか。

それゆえ夢の銀河鉄道は、カムパネルラと連れ添うように消え去って、ジョバンニは地上に戻される。賢治は自ら構築した彼の人生の集大成とも言うべき銀河鉄道の壮大な空想世界をジョバンニの夢の中できっぱりと自己完結させてしまうのである。本当の幸いは、苦しみながらも生きて生活し、自分や身近な人のために働き続けるジョバンニたちの前途にこそあるべきだという思いとともに。

ファンタジー作品として銀河鉄道の夜の最大の特徴は、ここにあると言っても過言ではないように思う。

ファンタジーの本質はメルヘン世界とリアリズムの世界をつなぐもの

賢治の晩年の作品が、日本のファンタジーの草分けとして正しく評価されてこなかったと以前の「季節風」でも指摘した。賢治のファンタジーの特徴はどこにあるのだろうか。

賢治作品の前後の時代には、鈴木三重吉や小川未明、浜田広介、新美南吉など著名なメルヘン童話作家が登場している。これらの作家が、自らの作品のなかに独自の空想世界をもっている点では、賢治と同じく民話やおとぎ話の世界を超えた、メルヘンと呼べる物語を生み出したことは確かである。

しかし賢治童話を小川未明や浜田広介などの作品と読み比べると、その空想世界の何かが根本的に違っている。非常に大まかな印象だが、未明や広介の童話はそれ自体完結した世界であるのに対して、賢治の、少なくともいくつかの作品は、その空想世界が完結しておらず、現実世界の自然や人間社会に対して何らかの裂けめを通じて有機的につながっているように思える。

そして、前者が完結したメルヘン世界の中でそれと一体に溶け込んだ登場人物が物語を創っていく姿を読者は見ているのに対し、賢治作品の登場人物は、そこに創られたメルヘン世界からはみ出してしまったり外から中に入っていったりする。賢治の作品でそれが成功しているものも、中途半端なもの、外の世界とはつながっていないものなど様々だが、銀河鉄道の夜は、まさに多重構造をもった作品世界の代表と言えるだろう。

かなり前だが、大学時代の同じ人形劇サークルのカップルがゴールインした時、お祝いのメッセージにこう書いたことがある…「2人の物語を童話に例えるなら、きのうまでの日々がメルヘンで、今日の祝宴がファンタジー、そして明日からはリアリズムですね」 社会の片すみで2人だけの世界が存在したのがメルヘン時代、それがある日、周囲の人々を2人の夢の世界に引き込んでしまう、結婚というファンタジーの瞬間、そして翌日からは、周りの世界とのかかわりで生きていくリアリズムの時代…。

これを物語の空想世界に置き換えてみると、ファンタジーというのは、凝縮された時間のなかに最も美しい世界を創り出すことで、メルヘンの世界をどこかで現実の世界につないでいるのかもしれない。

銀河鉄道の世界は、僕がファンタジーにかってに求めてきた空想世界の広がりや神秘性、美しさと華やかさ、その世界に生きる者たちの存在の確かさを備えているとともに、ジョバンニ少年を彼のメルヘンの世界から解き放ち、作品では描かれない「本当の世界の火や激しい波の中」へと送り出す。しかもそれを作者が自ら創造した空想世界を自己否定することによってなし遂げようとしたのである。

宮沢賢治自身が、住み慣れた伝統の世界と、まだ見ぬ激しい闘争の世界のはざまに立っていた時代との相克の姿でもあると言えるだろう。激しい時代の動きの中で、自らの理想とする世界を壮大に描きながら、なおかつその限界を悟り、自らを超える生き方を主人公に託そうとする、その創造のあり方こそ賢治のファンタジーが到達したものであり、賢治の最大の魅力ではないだろうか。