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日本のSFもファンタジーも停滞が続いている。空想世界を描いた作品は数多いし、受賞作や話題作もある。それでも物足りないのは何故だろうか。
日本のSFやファンタジー作品のほとんどは、今の時代と人間の本質的問題を最初から避けて通ったり、時代状況を固定的・敗北的にしか描かない。最近恐怖物が増えているのを見ても、強く感じるようになった。
空想世界を創造し、書き手自身はもちろん読者と共有しようとすれば、ストーリーや人物像、空想世界のリアリティー、設定や導入の必然性など、創り出した作者の時代認識の反映が何らかの形で問われることになる。
空想児童文学の価値を決めるのは、作者の“今日”を見る目の確かさ。そして空想世界の方法と不可分に結んで過去から未来へのはざまを読者に提示できるか…この点にあると思う。
空想児童文学停滞要因としてもうひとつ、評論活動が独特の歴史的ゆがみを抱えて立ち遅れているように思う。それは空想世界を作者の個人的、主観的な世界と決めつけ、時代を見据える有効な方法として評価しない傾向である。このため多くの作品が、正当な批評を与えられずにいる。その代表が宮沢賢治童話である。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」について、多くの評論がかかれたが、これを賢治がその時代との格闘の中で到達した自己変革のドラマであることを正当に評価した論者は皆無だったように思う。
日本でおそらく初めて描かれた長編ファンタジーが正当な評価を得られず、児童文学史上でも位置づけられなかったところに、ファンタジー児童文学の不幸な出発があったと思う。
そこで後半のスペースを借りて、「銀河鉄道の夜」の評価をめぐるいくつかの問題を検討しながら、いまのべたSF、ファンタジー作品における時代性とその批評の視点について考えてみたい。
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の舞台・鉄道の走る夢の銀河の世界はいったい何か。
これまでそれは、死者たちの魂を乗せて天井へ向かう死後の世界だという視点からの論評が圧倒的だった。もちろん、主人公のジョバンニ少年は死者ではないので、死者たちの鎮魂の列車に、親友のカンパネルらを慕うあまり、例外的に紛れ込んで乗ってしまったという解釈だ。そしてこの説は、賢治の創作の動機が、死んだ妹トシへの追慕にあるという理由によって根拠づけられている。
だが、賢治がこの作品に込めようとしたものを、そうした個人的な動機のみからの推論によって把握できるだろうか。
この幻想の銀河世界も、死後の世界ということだけでは片付けられない、多くの要素をもったものとして描かれている。銀色のすすきの原、青いコップのような一面のりんどうの花むら、化石の海岸など、理想的な美しさをちりばめた自然の情景・・・。
さらに奇妙なのは、飛んでいる間だけ銀河世界に存在し、地上に足がつくととたんに消えてしまう鳥たち、食べ終えるとむいた皮がするすると消えてしまう林檎などだ。
この銀河の風物は、あらゆる自然がその本当の姿のままで存在し、それ以外の姿では存在しない、つまり、美しさや価値がそのまま実体化した世界として描かれているようだ。
そう考えると、この世界のいろいろな風景の意味が分かってくるではないか。十字架の島の停車場へと人々が降りていくのは、まさに宗教の理想の姿を現したものだろう。この銀河を走る鉄道が、自らの宗教や理想に殉じて死んだ人々を乗せているのも、彼らの求める人生の真理、天井の理想の世界がこの銀河のどこかに置かれているからに違いない。
したがって銀河鉄道は、死者のみのためにではなく、人間一人一人にとっての真理や理想を求めていく人々の精神の旅路としてとらえ直すべきなのではないだろうか。
このことは、この列車の乗客たちの不思議な行動を理解する上でも大切な問題だと、私は考えている。
前号で、銀河鉄道の世界を死者のための死出の世界と決めつけるのでなく、理想を求めて生きる人々の精神の旅路と考えたらどうかという私なりの解釈を提案しました。
この視点から改めてこの作品世界を見渡すと、なぞめいていたものが、かなり鮮明に見えてくるのです。
銀河鉄道の乗客で、その正体が分かりにくい代表例として「鳥捕り」がいます。
鳥捕りは、貧しく卑屈な商人という風情で現れます。彼はジョバンニたちを「なにかなつかしそうにわらいながら」見ていましたが、おずおずと「あなたがたはどちらへいらっしゃるんですか」と聞きます。そして「どこまでも行くんです」というジョバンニに、「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」と答えます。
このことから、鳥捕りという人物は、ジョバンニたちにどこか親近感を抱いており、しかも銀河鉄道の世界やその行き先についてかなり知っているらしいことがうかがえます。
そして、鳥捕りは他の客とは違って、銀河世界の鳥たちをとらえては菓子に代え、売り歩いているようです。つまり死出の旅路でこの列車に乗っているのではないのです。死者でないとすると、いったいどういういきさつでこの列車に乗り込み、しかも“常連の客”となっているのでしょうか。
彼はひと稼ぎしたあと「体にちょうど合うほど稼いで」「せいせい」したと言います。その鳥捕りが、ジョバンニのみどりの切符を見ると慌ててほめそやし、うらやましそうにします。そしていつのまにか自分はこっそり列車から消え去ってしまいます。
これらの描写から推測してみると、鳥捕りはこの列車が真実や理想を追い求める者のための乗り物だと知っており、おそらくかつて自らもジョバンニたちと同じような乗りかたをしたことがあるような気がします。だからこそ二人に「なつかしそうに」話しかけてきたのではないでしょうか。もしそうだとすると、現在の鳥捕りの姿は何なのか・・。
私は、鳥捕りは理想を追ってどこまでも乗っていこうとしながら、何かの理由でそれをやめてしまったか、挫折をしたのではないかと思えるのです。旅の途中で銀河にすむ鳥を捕って売りさばくことを覚え、それが習い性になって抜け出せなくなり、列車に乗り続けるのをやめて鳥だけをおって暮らす惰性の日々を送っているのではないか。
前回述べたように、銀河の生物が純粋な価値の結晶であるとするなら、それを捕らえ、チョコレートのような甘いお菓子に変えて売りさばくという鳥捕りの仕事は、何を意味しているでしょうか。
「(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりももっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子を食べているのは、大変気の毒だ)」ジョバンニは、鳥捕りが鳥をつかまえるところを見たあともやはり信用できません。
作者はジョバンニの目を通して、鳥捕りが、かつては何かの理想を追って銀河鉄道に乗り込みながら、その理想を捨てて、銀河の純粋な美しい生き物を甘い味のお菓子に変質させて商売の種にしていることにきびしい批判の視線を向けているように思えます。
私には鳥捕りが、純粋な芸術や宗教をめざした者が商業主義に侵され、自らの理想のためではなくお金のために「真理」や「美」を売り物にする姿の象徴として描かれたように思えるのです。
賢治の「農民芸術論綱要」の中に次のような一節があり、この推論を多少なりとも裏付けているように思われます。
「…宗教は疲れて近代科学に置換され、然も科学は冷たく暗い。芸術はいま我らを離れ、然もわびしく堕落した。いま宗教家、芸術家とは真善もしくは美を独占し販る者である…」
ジョバンニは、鳥捕りに対し「ほんとうにあなたの欲しいものは何ですか」と聞こうとし、彼に代わって「百年続けて立って鳥を捕ってやって」でも、共に列車に乗り続けたいと思うのだが、これは近代の科学や芸術そして宗教が、資本主義の下で歪められていく姿に心を痛めてきた作者自身が、ともに真理探究の道を進むためには労苦を惜しまないという姿勢の現れなのかもしれません。
鳥捕りがいなくなってから、カムパネルラとジョバンニは、いずれも鳥捕りにすまない気がすると言い合いながらも、2人でさらにどこまでも進もうとします。少なくとも、ここまでは2人の間に心の溝はありません。しかしこのあと船の遭難で海に沈んだ人たちが登場すると、にわかに2人の間の、生きることの意味や幸福のあり方の違いがあらわになって来るのです。
“銀河世界とは、作者・宮沢賢治の心の中の、理想の美と自然の世界である”
これまでの銀河鉄道に対する私の独特の解釈は、その全てが、ジョバンニがいつの間にかポケットの中に持っていたみどりの切符とは何か、この謎を解くことに集約されます。
そして“理想を捨てて銀河の鳥を菓子にして売り歩く”(と私が考える)鳥捕りに対するジョバンニの「あなたの本当に欲しいものは何ですか」の重い問いかけ。
またジョバンニは、サウザンクロスで下車しようとする沈没船の青年や少女たちに対しても、「本当の神様」を一緒に探そうと、懸命に呼びかけています。
ジョバンニとは何者なのか…。彼のみどりの切符は、どんな資格を表わし、ジョバンニのどこにその資格があったのか…。
この問題についても、実に多くの論者がさまざまに論じてきました。ほとんどが、ジョバンニを「社会から落ちこぼれた孤独な存在」、「生を放棄し、死の世界に引き寄せられていく人間像」などという観点からとらえているものばかりです。
もしそうだとすると、この作品の前段でジョバンニの生活を描いた1章から3章までは、彼の「孤独な」人間像を浮き彫りにするために書かれたのでしょうか。
前半の3章は、この作品の初期の原稿にはなくて、のちの大幅な改稿の段階で加えられたことはよく知られていますが、それとあい前後する時期は、賢治にとっては孤独さから抜け出し、社会に貢献しようとしていた時期でした。羅須地人協会を創り、若者たちと語り合い、芸術を鑑賞し、一方で農民の稲作指導に全力を注いでいました。
この時期に書かれた「稲作挿話」という詩の中には、苦しみながらもたくましく生活する少年像が鮮やかに描かれています(詩の本文を参照)。
「幾夜の不眠労働にやつれ」ながらも賢治の稲作指導に真剣に耳を傾ける農民少年をみつめて、賢治は「きみのように吹雪やわづかの仕事のひまで泣きながら体に刻んでいくのが本とうの勉強なんだ」と、励ましています。
クラス仲間のひやかしや寂しさ、疲れに耐えながら、活版所の仕事や新聞配達で家計を支え、懸命に生きているジョバンニの中に、作者は身近な農民少年の面影を見ていたのではないでしょうか。
そうであればこそ、彼が夢の銀河鉄道での旅のあと、現実世界の地上に戻って来るという物語の展開は、カムパネルラの死出の旅路と対比するとき、重要な意味を帯びて来るように思えるのです。
カムパネルラは、生活の苦しみとは縁のない恵まれた環境にいて、誰に対してもやさしい少年として描かれています。そして彼は同級のザネリを助けて自分が身代わりになったことを、死出のたびの中で次のように述懐するのです。
「…誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸いなんだねえ。だから、おっかさんは、僕をゆるしてくださると思う」
カムパネルラはほんとうは悲劇であるはずの自らの死を、自己犠牲による至上の幸福として受け入れてしまうのです。それは結局、自己犠牲を越えていく幸福への道があることに目を閉ざしてしまうことにならざるを得ません。
カムパネルラが列車から消える直前、2人は「石炭袋」と呼ばれる「空の孔」(今で言う「暗黒星雲」だと思います)に遭遇します。
ジョバンニは「あんなもの、もう怖くない」と話しかけますが、カムパネルラははっきり返事しません。そのうち、その真っ暗な穴のそばに、「あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集まっている。あすこにいるのはぼくのお母(っか)さんだよ」と言ってからいなくなるのです。この瞬間に、カムパネルラの幸福と、ジョバンニが求めようとしている「ほんとうの幸福」との違いが鮮やかに描かれています。
カムパネルラはジョバンニのように誰かとともに支え合う生活というものを持ちませんでした。それはある意味で作者の賢治が感じていた自分自身の限界でもあったはずです。農民のために献身的に農作指導に打ち込みながらも、賢治自身は最後まで農民の実生活をともに支えていくことができない自分を感じていたんじゃないでしょうか。
ジョバンニは、作者のこの心の限界を超えて生きていく存在として描かれたのではないかと私は思います。賢治が描いた幻想の銀河世界も、間もなく消えてなくなり、ジョバンニだけがみどりの切符をもって地上の戻って来ることになります。
「どこまでも行ける」と言われた銀河鉄道の行く先は「ほんとうのみんなの幸い」を探すというジョバンニの現実世界での生き方にゆだねられたのです。
ジョバンニ(たち)にこそ現実の生活の中で自分や家族も含めた「みんなの幸い」を求めていく希望の道があることを、この物語の結末が暗示しているのではないでしょうか。
「銀河鉄道の夜」を書いた頃、宮沢賢治は満州事変から日華事変へと、日本の軍国主義、侵略戦争が広がっていく中で生きていました。彼が理想とした“誰もがともに幸福になれる社会”を本当に築いていける力が何処にあるか、誰がそれを担っていけるのかを、見抜いていたように思います。しかし、そのたたかいの中に自ら身も心も投じることはついにありませんでした。
彼は、当時の労農党稗貫支部の活動に惜しみない援助を与え、友人から社会主義思想について講義も求めながら、その真髄である階級闘争の理論にはついに理解せず、最後まで法華の思想をよりどころとして生き通したと伝えられています。
「銀河鉄道の夜」は、賢治のこうした時代との相克を、彼の抱えていた痛切な限界への自覚もふくめて形象化した作品として、改めて評価されるべきではないでしょうか。
しかし先に述べたようにこの作品についてあまた書かれた評論は、この視点を全くと言ってよいほど欠落させていました。同時に、社会性を重視して評論する人々からは「難解さ」を理由に、この作品は敬遠されてきたのです。賢治の到達した空想文学の方法を、後の作家たちが受け継いでいくことを困難にしたひとつの要因がここにあると言わざるを得ません。
空想文学では、作者の時代認識は複雑なプロセスをたどって作品に反映されます。だからこそこの分野のすぐれた作品について、鑑賞・読解を助け、創作活動を励ましていく評論の役割が重要なのだと思います。
空想文学の日本における停滞状況を見る時、作者の創り出す空想世界が作者の描こうとすることをわかりやすくする手段ではあっても、描こうとしたそのものではないという場合が多くを占めているという実態にぶつかります。逆に創られた世界そのものが自己目的化すれば、狭い主観性にとらわれやすい困難があります。
空想児童文学がなかなか今日の時代状況と正面から向き合い切れないのも、ひとつにはこの創作方法上での二律背反にあると思います。同時に、時代とのかかわりを独創的に描こうとする書き手の努力を評価する批評活動の遅れも、賢治に対してと同様にまだまだ克服されていないように感じます。
映像文化など、他のジャンルにくらべても立ち遅れの大きいと言われるSF・ファンタジー児童文学で新たな地平を切り開くためには、「銀河鉄道の夜」で賢治が試みたように今日の時代とたたかい、乗り越えていく少年像を、またその芽生えを、作者の全人格をかけて生み出していかねばならない。そう自分自身に言い聞かせつつ、また創作に向かいたいと思う。