時代を超えるまぼろしの道―「銀河鉄道の夜」に見る賢治の世界

「銀河鉄道の夜」は、宮沢賢治が死の間際まで推敲を続けたと言われ、彼の思想の集大成とされていますが、また同時に多くの謎の部分をふくんでおり、その評価をめぐっても人によって大きな違いがあります。

例えば、鳥越信氏は、「これが児童文学でなくて、大人の文学としても、私はやはり一級の作品とは思わない。なぜなら、さっぱり私には理解できないからである」(「日本児童文学史研究」1)と述べ、この作品の文学的価値を否定する立場をとっています。

また安藤美紀夫氏は「『銀河鉄道の夜』はおっかないよ、あれに触れるのは。ぼくも卑怯みたいだけれどもちょっとおっかなくてあれには触れられない」(座談会「賢治童話は児童文学か」-「宮沢賢治童話の世界」所収)と語り、この作品の「きらめくような発想に強く惹かれ」(同文)ながらも、児童文学としての難解さを率直に述べています。

いずれにせよ、この作品に魅了され、その実態はわからぬまま、心の奥にその印象を消しがたく抱いている読者は、世代を越えて確実に存在しているのです。

いったい、銀河鉄道をめぐる謎の中心には、何が潜んでいて、なぜ現代のわれわれにまで呼びかけてくるのか…この問題を2つの論点を通じて探っていきたいと思います。

ひとつは、夢の銀河鉄道とそれを包む幻想第四次の銀河世界とは何かという問題、もうひとつは、その銀河鉄道で運ばれる乗客の中に、なぜジョバンニ少年が最高の切符をもって加わったのか、いったいジョバンニとはどういう人物かという問題です。

この作品の魅力についても、この2つの点を考える中で、その秘密に少しでも触れていきたいと思います。

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銀河鉄道とその世界について、これまではこの列車が死者たちの魂を乗せた鎮魂の列車であり、その走る世界は“天上”へと向かう死後の世界であるとする解釈が、ほぼ不動のものとされてきました。

乗客の多くは、自らの命を他者のために捧げた聖職者や殉教者、自己犠牲の死者たちであり、その死を通じてこの幻想世界に駆け上がり、そのいずこかに自らの天上を見いだして、そこに赴くことを許された人々だからです。

そのことは最初、ジョバンニたちが乗り込んだ時にははっきりとはわかりませんが、氷の海に沈んだ船の一行が乗り込んだ時、『ああ、ぼくたちは空へ来たのだ。私たちは天へ行くのです』という青年の言葉で初めて明確に語られます。

他者のために命を捧げることに至上の徳を見いだす立場からすれば、死後の世界こそ至福の世界であり、自らそれを確かめ、そこに至るための「死後の時間」を夢想することには必然性があるわけです。

ここに、「銀河世界イコール死後の世界」とする最大の根拠があります。そうすると、死者であるカムパネルラたちがこの世界の主人公であり、ジョバンニは親友の死によって導かれ、銀河鉄道に便乗して死後の世界をかいま見た客人ということになりますが、それではジョバンニの切符の意味が不明になるし、鳥捕りの存在や銀河の情景など、どうもこの論理だけで割り切るには、謎が多すぎます。

銀河世界がどういう姿で展開されているか、その情景描写を読み返してみると、ジョバンニが列車に乗り込んだ時には、鉄道を取り巻く銀河世界は、光と色彩にあふれた自然界として、いきなり彼の眼前に展開されて行きます。

「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」と彼が叫んだように、自ら発光し、濁ることのない銀河の情景は、完全な美の世界だと言えます。

さらにこの一つ一つの情景描写を注意深く読んでいくと、この世界の自然は、ただ美しいだけでなく、一つ一つがそれぞれ理想的な姿を現していることに気づきます。

たとえば銀河の水は、「光をある速さで伝える」エーテルで満たされた“真空”の状態を形象化したものだし(当時、宇宙エーテル理論が最新の学説だった)、獣の化石はプリオシン海岸の地層年代を証明する種族が理想的な姿で埋まっており、ジョバンニたちが走っても疲れないのは肉体的能力が理想化されているためなのです。

つまり、この銀河世界は、あらゆるものが理想化された状態にあり、そのものの本質や価値それ自体が形をなしているからこそ、完璧な美しさを保っているのではないでしょうか。

そのようにして銀河世界を見て行くと、さぎや白鳥が地面に下りると消えてしまう話、燈台看守のもってくるりんごが、皮をむいて食べてしまうと皮やかすが蒸発してしまうことなど、いずれも意味がはっきりしてきます。全てが価値そのものの姿で存在している世界だからこそ、鳥は飛ぶのをやめた時、林檎は食べられた時、その存在意味を失って、消えてしまうのでしょう。

このように「幻想第四次」と呼ばれ、諸々の価値や理想や真理を美しい形と色でちりばめたのが銀河鉄道の走る世界であり、すべて作者賢治が構成した人工の自然界なのです。しかもこの宇宙の自然界は、それ自身の法則に基づいて営まれています。賢治はこの世界をジョバンニやカムパネルラの旅の背景に置くのではなく、むしろ銀河を取り巻く宇宙的幻想の自然世界それ自身を最先端の科学知識と芸術的感性で、緻密にかつリアルに創造し、構成した上で、そのふところに銀河鉄道を走らせたのだと言えます。

空想物語の作者の中でも、自ら幻想の自然世界を構成し、しかもその自然界をこれほど刻明にかつリアリティーをもって描き出した作家は、おそらく賢治が最初でしょう。

以上のように、幻想の銀河を美しい価値や理想の形象化された世界と考えるなら、そこに宗教的な偶像として北十字の島があることも、どこかの物語の主人公であるサソリの火が燃えていることもうなずけるし、人々の理想の地としての天上が、この世界の中に含まれていることにも必然性が感じられます。

人間の人生や宗教や死といったものまで、あらゆる価値を早退としてつつみこんでゆく世界として、賢治がこの銀河の流れを見ていたということでしょう。

しかし、それにしてもこの銀河鉄道と、その乗客たちに関してはいくつもの不可解な点があります。ひとつには、なぜ乗客によって降りる停車場がいくつにも別れるのか、また鳥捕りとは何者なのか、そして何よりジョバンニの特別の切符のわけをふくめて彼が他の乗客たちと何が共通していてどこが違うのか…。これらの問題は、人生や幸福についいての賢治の思想の表現として、次に分析していきたいと思います。

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恩田逸夫氏は岩波書店版の「銀河鉄道の夜」の解説で「この作品―の中心をひとくちにいえば『幸福論』です」と書いています。

たしかに作者は作品の中で「ほんたうの幸い」ということばを何度も使っています。また銀河鉄道の乗客たちの会話の大半は、直接にしろ暗示的にしろ「幸福」の問題にかかわっています。そしてその中で印象的なのは彼らの語る幸福がほとんど、語っている当人の死との関係で述べられていることです。乗客たちは鉄道に乗ると間もなく必ず自らの死をふり返り、考えます。そして『誰だってほんとうにいいことをしたら、いちばん幸いなんだねえ。だからおっかさんはぼくをゆるしてくださると思う』とつぶやくカムパネルラと同じように、結局は自己の死を追認するのです。こうして彼らの極限状態での咄嗟の行為による死は、自らの選択による自己選択による自己犠牲の死へとその意味が最終的に確定されます。またそうであってこそ、カムパネルラは彼が許しを願っていた母親のいる銀河の川原へ、青年たちは輝く十字架のもとへと、それぞれが本当の天上だと信じて下りて行くことができるのです。

ところが列車にはこうした部類に属さない人物が少なくとも2人います。それがジョバンニと鳥捕りです。

鳥捕りについては、商売の様子などから見ても死者というイメージからは遠いようだし、他者のために献身的なようにも思われず、むしろ世俗的で卑屈な商人という印象です。 『天の川の砂が凝(こご)ってぼおっとできる』鷺や白鳥のように、もともと象徴的な実体のない存在である銀河の生き物を、チョコレートのような甘い菓子という実体に変えて売り歩いているというのも、どこか価値や理想を安易に具象化して切り売りしている人間社会の商業主義を反映しているようにも感じられます。

ただ、鳥捕りが銀河鉄道についてかなり詳しいことや、ジョバンニたちを懐かしそうに見たり、ジョバンニの切符を極度に羨ましがるのはなぜか。おそらくは鳥捕りも、かつてはジョバンニのように、この世界をどこまでもいこうとして列車に乗ったのではないか…それが何かの拍子に銀河の川原に降りる鳥をとらえて売り歩くことを覚え、先に進むのをやめたのではないか…。今は『からだにちょうど合うほど稼いで』『せいせいした』と自己満足し、惰性的に生きているのではないか…そのように思われてしかたないのです。

そして死者ではないもう1人の存在・ジョバンニは、鳥捕りと対照的な存在としてとらえることができるのではないでしょうか。つまり、どこまでも理想を追い求める人間像として。

彼はポケットに入っていた特別の切符のおかげで、鳥捕りの予言したように、どこかの天上で降りることなく、鉄道に乗り続けます。しかしそれゆえ彼は、みんなが一度は一緒に銀河鉄道に乗り込みながら、かほるや青年たち、さらにカムパネルラまでがあいついで降りてしまうのを見送らねばならなかったのです。

各々にとって絶対の場所であるはずの天上が、この銀河世界の中では、すべて途中下車の停車場として描かれており、乗客によって降りる場所がくい違っています。

死者である他の乗客とジョバンニや鳥捕りをつなぐ共通のベクトルが、それぞれ自分自身の最も幸福な場所を求めて旅する者であり、あらゆる理想や価値あるものの世界である銀河のほとりのいずこかに自らの幸いの地を見定めたものから順次おりてゆくものとして描かれていると考えるべきではないでしょうか。

『ああそうだ。みんながそう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでもみんな何べんもお前といっしょに林檎をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。』

初期形(賢治の推敲途中の原稿)以後に除いた部分に登場する黒い帽子の男の言葉も、あらゆる人が、みな自らの幸福を求めて夢の銀河鉄道に乗り、旅を共にすることがありうることを示唆しているのではないでしょうか。

さて、それではジョバンニ自身はどうなるのかと言えば、彼は『どこまでだって行ける切符』を持ちながら、カムパネルラとの別離の直後に地上に戻されてしまいます。この場面は後期形では突然やってきますが、初期形では夢から覚める前に黒い帽子の男が現れて、カムパネルラといっしょにどこまでも行きたいと願うジョバンニに対し前述の言葉を残します。男の言葉は、ジョバンニが『みんなの本当の幸い』を求めるという決意をしたことが、カムパネルラとの別れと地上への回帰の原因になっていることを示唆しているようです。

たしかにそれまで自分たちの天上に降りていった乗客たちは、献身的であるにせよ、その幸福感は自己完結しているのにたいして、「みんなの本当の幸いを探す」というジョバンニの決意はそれを踏み越えようとしているのです。すると、空想の天上界をつないでいく鉄道に乗り続けることが矛盾を来してしまいます。

ジョバンニのいうような『本当の幸い』のありかは、もはやこの夢の鉄道で訪ねることは不可能だし、彼の決意を実現する道は、銀河世界のような個人的幻想あるいは観念の世界でなく、現実の人間社会の中でのたたかいしかない―このことはほかならぬ作者の賢治自身が痛感していたにちがいありません。だからこそジョバンニは、サウザンクロスで下車しようとする青年との「ほんとうの神様」をめぐる議論や、親友カムパネルラが黒い孔のそばでジョバンニには見えない自分だけの天上へ行ってしまったことなどを通じて、自己完結の個人主義的な幸福に向かおうとする人々との避けられない精神的別離を体験し、それゆえ現実世界に戻らざるをえなかったのです。

ジョバンニの緑の切符は、ジョバンニが様々な人々の美しい天上への道行きに同伴しながらも、ついにそのいずれにも身をゆだねることなく、幻想世界を踏み越えることで初めて、現実世界を行き抜いて求める幸福の存在をつかんだ、その証明にほかならないと思います。

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さて、自己犠牲の死の道を選んだ親友や乗客たちと別れて現実世界に戻ってきたジョバンニに示されたものは何だったか…親友の死の確認とともに、カムパネルラの父親の言葉で父親の帰郷を聞かされたこと、それ以外はなにもありません。作者の賢治は、自己犠牲による幸福への道以外にも、魂の救済される道があること、そのありかを探ろうとする人々を描きたかったのでしょう。しかし賢治の人生そのものが、自己犠牲の社会奉仕という限界を超えられなかったように、その「幸福」の新しいありかを指し示すことは賢治にはできなかったのです。賢治の生き方、その幸福感の限界を突き破っていくたたかいは、全てジョバンニ少年に託されたことになります。

ジョバンニ少年の、どこにその資格と可能性が潜んでいたのでしょうか。それはまだ端緒的にしか描かれていない、彼の厳しい生活と労働にあったように思えます。最終形でわざわざ賢治が書き足した部分です。

家計の一部を支え、母親の世話をしなければならず、友達との遊びもままならない彼の逆境が、カムパネルラのような、自分だけの観念的な幸福の殻に閉じこもるのでなく、自分も家族も含めた「みんなの幸いを」求めるというもうひとつの道を選ばせたのだと考えられるからです。もし賢治がその点に、自分を超えていくジョバンニという人物像を描いたとするならば、実は賢治自身が人から当てにされ、必要とされたくて生涯を献身的に働き続けながら、ついに自分を本当に必要とする誰がしかの存在も見いだし得なかったのかも知れません。

いずれにしても、賢治がこれ以上の展開を行なうことはありませんでした。当時人々の意識は天皇を頂点とする絶対的専制政治のもとで巨大な国家的ピラミッドのもとに組み込まれ、ファシズム国家体制を支えるために利用されていました。農村における子どもたちの上には厳しい封建的家父長制が重くのしかかり、彼らの自我の育つ芽を踏みにじり続けていました。ジョバンニのような少年像は、当時においては賢治が創りあげた仮想的な児童像であり、銀河鉄道での彼の精神の旅路も、本当の幸いへの決意も、あくまでまぼろしの意識展開にほかなりません。

しかし、それらのまぼろしが、現代の私たちにはより身近な存在として感じられるのは何故でしょうか。それはおそらく、賢治がぶつかっていた人生の幸福追求の課題が、いまこの時代に生きる我々にこそ、突きつけられているからではないでしょうか。

私たちや子どもたちが、今日の社会状況のもとでぶつかっているさまざまな困難は、自らの行為や心の持ち様で解決できることはほとんどありえないし、またそのことは誰もが十分気づいていながら、私たちのほとんどが、個人主義を超えるような幸福の求め方を知らないという点で、ジョバンニと共通の出発点に立たざるを得ないからではないでしょうか。

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古田足日氏は「昭和の児童文学」という評論の中で、「賢治の孤立は当時よりも現在において問題である」と述べました。

彼の指摘はまさに図星をついており、古田氏がこの評論を出して20年近く(今では40年)経ってもまだ賢治は孤立し続けています。古田氏は直接には「賢治の発想・文体がまだ日本児童文学全体のものとなっていない」ことを指しているわけですが、その背景には、さらに深刻な問題が横たわっているように思います。

それはひとつには、児童文学全体をおおう伝統の喪失の問題であり、もうひとつは、描かれる児童像が、個人主義のくびきを抜けられないという問題で、この両者は実は深い所でつながっているように思います。

賢治の銀河鉄道の世界には、その風土と伝統に根ざし、同時に近代諸科学とも融合した、“在りえたはずの、まぼろしの近代的世界観”が息づいており、さらにそれを超えようとする試みがあったのです。それは今日から見れば、極めて空想的、牧歌的な弱点を指摘することもできます。それでもなお、彼が一人の少年を、近代を超えてゆくとうげまで連れていったことは確かなのです。

賢治が私たちを魅了するのも、私たちがほとんど失いかけている自然と融合して生きてきた日本人の伝統の世界と、いまだに見通せない今日を超える世界とが、近代科学や文化をも媒介にしながらひとつながりになった瞬間を、介間見せてくれるからではないでしょうか。

古田足日氏が述べているように、今日の困難な児童文学状況を超えていく道は、必ずしも賢治の世界を取り込まなくとも開かれることはあるでしょうし、多分その方が可能な方向でしょう。賢治的世界がどこにも存在しなくなれば、それは過去のものとせざるを得ないのですから。

しかしそのことは、児童文学史に大きな黒い穴の開いたまま進むことを覚悟しなければならないのです。