1952年

国鉄マンの長男として室蘭の母親の実家で誕生。幼い頃は転勤の連続で札幌、金沢、仙台、中野など全国を転々。

1958年

当時の門司市(現北九州市門司区)で小学校に。このころは、大変ひ弱で、毎月のように病院通いをしていた。

1歳になる前の頃、札幌にて

1961年

板橋区立稲荷台小学校に転校。4年生の担任が大野先生。現在ユニセフの総務部長で活躍。62年にまた門司の清見小学校に。

1964年

文京区立第2中学校に入学。教科書裁判などで活躍の本多光栄先生に社会科を教わり、科学的な社会の見かたに目覚めた。

小学校入学前、門司にて

1967年

都立小石川高校に進学。自由な校風を満喫。学園祭の「創作展」で隅田川調査。以後、この川とは長くつき合うこととなる。

1970年

北大理類入学。童話研究会で人形劇活動に没頭。宮沢賢治の作品と出あう。「学生の作品は理屈っぽくておもしろくない」との汚名を返上し「チョコレート戦争」(大石真原作)で72年コンクール優勝を果たす。

小学校6年の頃、若戸大橋を背に姉と

1972年

沖縄返還・安保廃棄運動に参加。ベトナム戦争での無差別爆撃に怒り、子供の未来をひらきたい思いで日本共産党に入党。

1974年

北区浮間の新日曹化工の研究所に勤務。ノーカーボン紙の青色染料の製造法改良でパテントを取り、現場に導入する直前の78年2月に退職したので不思議がられた。この4年間地域の青年運動、平和運動に参加。人形劇サークルも作った。

高校入学の頃、生意気盛り

1978年

民主青年同盟の北区の委員長(専従)に。翌79年1月に結婚し秋には長女の友希子が誕生。

1982年

「赤旗」北区出張所勤務に。5月に次女美和子誕生。原水禁大会に参加。北区の非核宣言運動、トマホーク反対など平和運動で頑張る。

夏の巡回公演で積丹の子供たちと

1984年

赤羽台4丁目団地に転居。翌年長女がぜんそく発作で国立王子病院に入院。のち86年に持ち上がった国立病院統廃合による王子病院廃止計画の反対運動に参加。

1987年

区議会に初当選。政務調査副会長。初質問で戦争体験記の発行、原爆資料展など平和事業の充実を求める。

大学OBが中心の「あひるの子」

1991年

区議会2期目に当選。政務調査会長となり、小選挙区制反対の意見書を6月議会で否決されながら、9月議会では1票差で採択にこぎ着ける。

1992年

参議院選挙で上田耕一郎さんの4期目の当選を勝ち取った直後、都議予定候補に推薦される。たばこをやめ好きなお酒も控えて1年間全力で準備し93年に初当選。直後の総選挙では中島武敏さんの議席を取り戻した。

長女の1歳の誕生日

1995年

前の年になぜか地方選挙のポスターのモデルにされ、全国に張り出されて恥ずかしい思い。翌年の95年は異変の年。1月の阪神大震災・3月のサリン事件と続いたが、4月の区議選では私の後継者として、さがらとしこさんが初当選した。

1996年

当時の青島知事が都民への公約を破り、臨海開発推進を打ち出したことを厳しく糾弾。無駄づかいの大型開発追及の先頭に。

都議初当選の時

1997年

2期目の都議会に当選。日本共産党は26議席で第2党に。都政に大きな影響力発揮が可能に。行財政改革特別委員会も設置されて財政健全化計画の福祉切り下げを許さぬたたかい。

1998年

初めて予算委員会で代表質問。都のシルバーパスやマル福削減計画を追及し、否決、撤回に追い込む。

臨海部工事を調査した時

2000年

石原知事に代表質問。厚生委員長となり介護保険や特別養護老人ホームなどを調査、医療改革を提案。

介護保険調査を発表する記者会見で