88年大会バッジ

区議会議員に当選した翌年、多忙の中でなかなかデザインがうまくいかず、苦労した結果の作品です。後景にあるのは、核兵器のお墓のつもりなのですが、ついにうまく描けませんでした。残念ながら、このころには原水爆禁止世界大会は、再び分裂して開催されるようになり、関係者に悲願だった、運動の統一回復はなりませんでした。大会バッジのデザインや、代表団の報告集の編集などは、生協病院や平和委員会の青年達に引き継がれました。


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